日記編集
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土星と錬金術
こんにちは、ホイリーです

西の空に沈む双子座の満月を眺めていました。陰も陽も全てを含んでいるからこそあんなにまんまるに輝けるのかしらと考えながら、とても穏やかな気持ちでいます。

さて、昨日はインナーチャイルドカード読み会でした。テーマは2017年の総括ということでしたが、今月は土星が3年ぶりにサイン移動することもあり、射手座土星の話題ものぼりました。

今年お目にかかる方によく訊かれたことは「自分軸ってなんですか?」という問いでした。そして私は昨日の集まりで適切なキーワードをいただきました。それは図々しくあることです。

笑ってしまいますが、射手座の支配星が木星であることを考えると、これはあながち間違っていないのではないかと思います。射手座にいた土星はこの3年間、いかに自分という尊厳を失わずに図々しくいられるか?そしてそのために何よりも大切になる自己肯定感を促す経験を私たちにもたらしてくれた気がします。

誰も愛してくれないなら、私が私を愛するための時が来たのだと知ることができます。誰もやっていない事に踏み込むなら、ありったけの勇気を奮い立たせる時が来たのだと知ることができます。他者評価や擁護を必要としない自分になることが、自分軸の確立に繋がるのかもしれません。

翻弄され、思い悩み、挫折や無力感を味わった3年間だったかもしれません。土星は古典占星術で冷えて乾いた天体と言われていますが、私たちの「変わりたい」という意思ひとつで滴るほど愛に溢れた天体に変容すると私は考えています。それは人間が身をもって体験できる貴重な錬金術です。

この3年間で射手座土星が与えてくれた貴重な機会を、冬至と共にやってくる山羊座土星に繋げたいと思います。そしてこの実りをお知らせしてくれた射手座太陽と双子座満月に感謝を捧げます。


波と粒の日々
こんにちは、ホイリーです

昨日は母親と声楽を聴きに行ってきました。声ほどパワフルで心を震わせる楽器はないのかもしれない、そんなことを感じさせるコンサートでした。「なんだか来た時より元気になっちゃったね」と話しながら母と別れました。声はバイブレーションそのものです。

さて、昨日は母と待ち合わせをする前に一人の女性と対面していました。対話を重ねながら感じたのは、私たちは何を選び取るのも自由だということです。宇宙でさえそれを止めようとはしません。いつもストップをかけているのは私たちの方なのかもしれません。世界は優しいです。それがどんな選択であれ許してくれます。

数日前に私はとある調べものをしていました。好奇心に任せそれらをノートに書き留めながら、(おおっと!これは新しい流れが来るぞ)と直感しました。昨日お会いした方はその調べもののすぐ後にコンタクトをくださった方です。トントン拍子で翌日にお会いすることになり、お互いが目に見えない存在の計らいを感じずにはいられない一時間でした。

今年セッションで多くいただく声は、申し込んでから状況が二転三転した、自分で自分の行動に驚いている、ほんの一週間前が「あのころ」みたい、などのご感想です。そもそも私が時系列で物事を捉えることから離れつつあるので、それはとても自然なことなのかもしれません。ご縁の繋がる方との共鳴なしにセッションは進みません。

今の私は、一本の道として時系列で日々を捉えることは呪縛にさえなりかねないと考えていますし、過去の検証や経験則もどれだけ役に立つのか未知数に感じますし、将来の見通しにおいては絵空事のようにも思えます。

今日という日を愛おしむ以外に大切なことなんてあるのでしょうか。今はそんな気持ちで毎日を過ごしています。昨日という日から持ち越すものもなく、明日という日に持ち越したいものもありません。それは身軽で、変化に富んでいて、穏やかな瞬間の連続です。


2018年の展望
こんにちは、ホイリーです。

先日の蠍座新月に柚子はちみつを仕込みました。出来上がった瓶詰めは一軒ずつ今年お世話になった方へ贈りました。まもなく2017年の終わりが近づいてきます。

夫婦の何気ない会話では「来年の事を話すと鬼が笑うよ」と言ったら「鬼が笑うなんて素敵なことじゃない?」と返されて、あぁ、その発想は無かったなと思いました。まもなく鬼も笑う来年がやってきます。

さて、2018年はどんな一年になるのでしょう。来年の年運という言葉を聞く季節になってきましたが、星の伝書鳩では要望がない限りお伝えすることはありません。たぶん、誰よりも私が興味ないからです。もし要望があってお会いする事になった時、私は死んだ魚のような目をしているかもしれません。その時はごめんなさい。

今年も多くの方にお会いし、そして星を手放しつつ感じていることは、人は想像以上に変わるということです。今この瞬間に集めた判断材料や見通しを駆使しても、明日には想像以上に取り巻く世界が変わります。

それはとても喜ばしい裏切りです。本当は世界は何ひとつ変わっていないのですが、私という存在はいつどんな瞬間にも変われるので、世界もそれに合わせて変わって見えてくるのだと思います。

ですので今この時点で未来の展望を知ること、そして見通しを立てることに対して、私はあまり大きな意味を感じていません。今年お目にかかった皆さまは、私の予想をはるかに喜ばしく裏切り、自由に飛び立って行かれました。そんなとき、私は自分が提供した見取り図や地図の無意味さを感じ、とてもうれしくなるのです。あぁ、全く要らなかったなーと。

今は未知数で無限大な来年の話をするよりも、今日この瞬間に感じていることを分かち合いたいと感じています。きっと2018年もすてきな一年になります。心の中に広くスペースを空けて、その景色をご縁のある皆さまとパノラマで眺めてみたいなと思います。


お日さまとお月さま
こんにちは、ホイリーです

少しだけ東京を離れています。ここは白さぎの多い街で和みます。田んぼのいたるところで悠々と白さぎ達が飛び回っています。

さて、私たちがよく使うお日さまの「ひ」やお月さまの「つき」、そしてあめ、そら、ほしなどの言葉は、大和言葉という日本の古語なのだそうです。普段何気なく使っているけれど、飛鳥時代よりも昔の人々が口伝えで使ってきた言葉なのだそう。

中でもあめ(天、あま)という言葉は天でもあり海(あま)でもあったとか。頭の上に広がっている宇宙と大地に広がる海を同じ言葉で表していたなんて、古代の人々の感覚の豊かさに畏敬の念がこみ上げます。「上なるものは下なるものに等しい」ことを、古代の日本の人たちもどこかで考えていたのでしょうか。なんだかロマンを感じます。

大和言葉のように、いくら時間が流れても変わらない本質のようなものがある気がします。きっとこれからも日本語を使う人は頭の上を指差して空というでしょうし、夜空を見上げては星というのでしょう。

変わらないものがあるなら変わるものも当然あります。でもそれはバランスですから、両方あって初めて完ぺきになり、絶妙にお互いを引き立てているのでしょう。

私はいつも変わらず北の一点から見守ってくれているポラリス(北極星)が大好きですが、毎日居場所も姿も変えて楽しませてくれるお月さまも大好きです(九十九里から見送る西の三日月も本当に美しかった!)。

私たち人間もココロやカラダは時に激しく変化していきますが、それならば「たましい」などの表現で呼ばれるような変わらないものも、本当はあるのではないかなと思います。目には見えないから「はいコレですよ。」と差し出すわけにいかないのが難点ですが…。

変わらずそこにあるお日さまと、変わり続けるお月さま。私たちはそのバランスを日々体現しながら、「わたし」という最高に居心地の良い支点を探し続けているのかもしれません。


天秤座木星と盆ダンス
こんにちは、ホイリーです

明日は乙女座27度にて新月・・・ですが構わず天秤座木星のお話をしたいと思います。空気を読むのは昔からヘタみたいです。

今日、ポストを開けたらとある学園祭の案内状が入っていました。その絵はまさに天秤座木星を体現したような絵柄でした。たくさんの人やちょっと変わった生き物が輪になって踊っています。垣根を超え多様性と共に、楽しげに、よろこばしく宴に興じています。

そういえばそうだったなぁ、去年の9月に始まった天秤座木星の一年間はまさにこの「輪になって踊ろう」という無意識のテーマが、多くの方の胸に去来したのではないでしょうか。

天秤座を運行する(というかそこいらの星をなぎ倒すように駆け抜ける)木星は10月10日に蠍座というステージに移ります。昨日も同業者の方とお話していたのですが、9月に入ってから天秤座木星のフィナーレ感がハンパないです。天秤座の20度を過ぎた頃から暑苦しいほど木星が最後の天秤アピールをしています。

でももうそんなタームも終わりなんだなぁと、この案内状を見て感じました。広がり続けていた横のネットワークはだんだんとその回路を閉じていきます。たくさんの目に触れることを良しとしていた風潮は次第にクローズドになることでしょう。もうインスタ映えする写真を撮る必要もなく、フェイスブックの更新でスマホの電池を消耗することもありません。

輪になって踊っていたパリピはひとり、またひとりと次第にその輪から外れていきます。誰にも悟られることなく、しっぽりと暗闇に消えていきます。そしてその後を知る者は誰一人いませんでした・・・なんてことになりそうな予感。

では去年の秋から始まった天秤座木星が残したものは何だったのでしょう?

それは「帰り道の方角を確認する」ことではないかと思います。牡羊座から乙女座までの前半6サイン(星座)は目的地に向かう道でした。でも目的地の天秤座にたどり着いてハタと気が付くのです。「ここは本当の目的地ではなかった」という事実に。そして今度は後半6サインをかけて、本当の目的地にたどり着く「帰り道」を探し始めます。

天秤座木星時代に自分というものをさらけ出したおかげで、「本当の自分」がうっすらと見えてきた方も多かったのではないでしょうか。でも、まだまだ道は続きます。時には歌い踊り、時にはカンテラを灯しながら、私たちは経験という道のりを歩みます。

木星はたくさんの景色を見せてくれます。おどろきも、よろこびも、哀しみも。まもなく景色が切り替わります。そのときにはたっぷりのお礼を木星に告げたいと思います。そして輪になって踊ってくれたすべての方に感謝を伝えたいと思います。

朝まで踊り明かしてくれてありがとう。


終わりは始まりの合図
こんにちは、ホイリーです

庭のコットンが収穫の時期を迎えています。いちばん始めに摘み取ったコットンは神棚にお供えし、秋の実りを報告しました。

さて9月13日の早朝、急に思い立ってtwitterで毎朝更新している星回りの呟きをやめることにしました。今年の春くらいから徐々に感じていたことですが、やっと決心がつきました。正直、たくさんのお顔が目に浮かびました。お目にかかる方には「いつもほしでんを楽しみにしています」や「毎日手帳に書き留めています」とおっしゃってくださる方もいらっしゃいます。

そんな方たちに残念な想いをさせてしまうのではないだろうか・・・一瞬だけ迷いましたが、すぐに思い直しました。星も人も信頼してるなら、この選択はごく自然な流れですから何もためらうことはなかったのです。

毎日の星回りをチェックせずとも、私たちはいつも星の流れに則り、たゆたうように毎日最善の選択をしています。なんだかもう、それだけで十分だと思うようになりました。言語化は時に危うい側面を持ち合わせています。私は自分の発信しているものが誰かの何かを決めつけるものであってはならないと、いつも配慮していました。

でももう発信すること自体に、その危うい側面を自分自身に感じるようになってきました。もちろん発信する多くの側にはいろんな理由(自己表現の場であったり、能力向上の実践現場であったり、奉仕であったり、または宣伝を兼ねていたり)があって発信していますので、一括りにするつもりは毛頭ありません。どの道も最善の選択として行われていることであり、心から敬意を表しています。

満了のお知らせが私の元にやってきました。今は細かく刻む度数や輪切りのように星空を切り分けることなしに、そのまんまの、ありのままの星回りを体現した世界を眺めてみたいなぁと、そんなふうに思っています。毎朝手元に引き下ろしていた星は元の場所に戻します。

この選択がますます人と星を好きになる道を開放すると予感しています。タロットのいちばん始まり、愚者のカードのようにこの道を楽しもうと思います。

by flow 2017- 9-17 Sun 16:18
最近の 色んなものがぬけていっている?ホイリー様に かなり気持ちの良いものを感じています✨

書かれる文章を読ませて貰っても 私にはただ喜びがあるだけです💞

表現がむずかしいですが・・




by ホイリー 2017- 9-17 Sun 16:28
flowさん そう仰って頂けてとてもうれしいです。ぬけていっている…たしかに!いちばんしっくり来る表現です。代わりに言語化してくださってありがとうございます。

ぬけたのかー、そうかー(にまにま)!


宇宙からの招待状
こんにちは、ホイリーです。

時間はできるものではなく創るもの。この数年でやっと学びました(遅)。ということで今日は3本目の更新です。

夜空に見上げる月がだんだん地球から離れています。一年にしたら微々たるものですが、それでも少しずつ離れているようです。占星術での月は感情や潜在意識を司りますが、もしかしたら人はこれから感情や潜在意識からだんだん解放されていくのでしょうか。

月は身体という象徴もあります。感情といい身体といい、人間の原初的な部分を司っているのが月です。だから他のどの天体よりもその人に密着しており、染みついています。その月がだんだん地球(私そのもの)から離れている・・・。

実際の天文としての天体の変化と占星術の象徴に相関関係はないとする見方もありますが、私は地球から見た惑星の動きはもとより、距離や明るさの変化などもその星の影響力を変えていくと思っています。

例えば明治10年に火星の大接近がありー2.5等まで火星が明るくなりました。火星は占星術では戦いやトラブルを示すとされていますが、この頃日本では明治維新の混乱による西南戦争が起こり西郷隆盛が亡くなりました。

話が逸れましたが、人間からカラダとココロが少しずつ距離をとっていく・・・。そんな未来がやってくるのでしょうか。答えは私たちの何代も何十代も後を生きる未来の人たちが知ることになるのでしょう。

月が今後順調に(?)地球から離れるならば、未来の人たちはいつか皆既日食を見れなくなります。先日北米を中心に皆既日食を観測したばかりでしたが、もうあんなにぴったりと月は太陽を隠してくれなくなります。少し、光がはみ出ます。

そうなると皆既日食に投影していた占星術的象徴も必要なくなりますし、天文現象としても皆既日食は過去に流れていくのでしょう。今朝の記事にも書きましたが、物事にはいつか終わりが来るのですね。ささいな日常の出来事から、宇宙規模まで。

地球には大地というどっしりした地盤があるため物質的な執着や感情による自他の束縛に傾きがちですが、宇宙は絶えず「万物は変化する」という招待状を送り続けているのかもしれません。

私たちがもっと軽やかに生きるために。独占するよろこびから分かち合うよろこびを知るために。


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