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高遠の歴史
〔高遠の歴史と人物〕
◆歴史 ※約675年前(1340)、諏訪氏一門の惣領初代高遠信員(高遠氏始祖)が居城。 二代高遠義海・三代高遠大源・四代高遠悦山・五代高遠継宗・六代高遠満継・七代高遠頼継と約200年高遠氏が居城。 南は中沢から北は辰野まで領有。一時は武田と密約、諏訪氏滅亡後諏訪も宮川から西を領有。 ※諏訪氏滅亡のあと、諏訪の領有を巡り武田と高遠は対立、高遠氏は滅亡。 高遠城は武田の信濃への進出拠点となる。 武田(一時、高遠諏訪氏名跡)勝頼も城主の一人。 武田は織田・徳川氏と対立、高遠城は重要な軍事拠点となる。 初代秋山信友(飯田城主・上伊那郡代)・二代武田勝頼・三代武田信廉・四代仁科盛信。この間、約37年。 (安曇郡を領する仁科氏は盛政が甲斐国の武田信玄に討たれたことにより仁科氏の正統は途絶え、信玄は五男である盛信に仁科氏の名跡を継がせ、本来の居城である信濃国森城の他、高遠城の城主を兼任する。) 天正10年(1582)、武田勝頼の弟仁科五郎信盛が、織田軍と戦い壮烈な戦死。 (武田氏最後の戦い) http://senjp.com/nishina-mori/ ※江戸時代、諏訪氏一族で高遠氏の旧臣藤沢郷の保科正俊・保科正直(下総多古(千葉)へ移封)・豊臣秀吉家臣飯田城主・伊那郡領主毛利秀頼(城代毛利勝斎)・飯田城主・伊那郡領主京極高知(毛利秀頼の娘婿→丹後12万3000石へ)(城代岩崎左門重次)・徳川家臣保科正光(正直の子が多古より戻る)・保科正之(保科正光が預かり、正光の子として養育され第3代将軍徳川家光の異母弟とわかり山形20万石→会津若松24万石(会津松平家初代)へ)と城主が交代。 ◆紅花と高遠そば 紅花は保科氏によって山形、会津に伝えられたのではないかと 千葉 http://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/e/dfb1b51a891c87802e457e333531b97a 保科正之が山形へ、さらに会津若松へ転封。 高遠 http://takato-inacity.jp/taiga-drama/保科正之公とは 山形 http://www.yamacomi.com/4880.html 会津 http://yae-sakura.jp/aizuhaku/column19 ◆高遠そば 会津松平家初代藩主「保科正之」が、信州高遠から転封し広めたと言われています。 http://www.nikkoku.co.jp/sobanokuni/037/culture.htm ◆小原庄助 保科正之公とともに会津若松に移ったと言う説もあります。 小原城の城主で会津藩家老の孫。 http://senshoan.main.jp/minyou/minnyou-aidubandaisan.htm さらに、山形20万石から所領没収・減封された鳥居忠恒の子忠春(しかし悪政を敷いて百姓に尾張藩領の木曾へ3000人?さらには正之の山形へ2000人?もが逃散、家臣7人を手打ちにするなど暴君で斬殺される)・鳥居忠則(父同様に暗愚な藩主で閉門となった忠則は自刃し没収・改易→子忠英は能登下村藩へ減封されるが幸い忠英は英明)と城主が交代。この間、約108年。 この後廃藩、約2年間は幕府領(松本城主水野氏の預かり)となる。 そして、内藤藩主が摂津(大阪)富田林藩3万3千石より移封。 内藤清成(清成から初代と数える説もある?)・初代内藤清枚・二代内藤頼郷・三代内藤頼由・四代内藤頼尚・五代内藤長好・六代内藤頼以・七代内藤頼寧・八代内藤頼直とこの間約180年。 ◆内藤新宿(内藤清成~) 高遠藩主内藤家の下屋敷のあったエリア。新宿御苑は、内藤家の江戸屋敷。 高遠藩内藤家初代内藤清成が徳川家康の鷹狩で馬術の功績から21万3000坪(20万石)を拝領。 その後、敷地の一部に甲州街道の第一宿「内藤新宿」を開設。 http://fng.or.jp/shinjuku/place/history-01.html ◆内藤とうがらし(内藤清牧~) 江戸時代の宿場町、内藤新宿で育てられた野菜のひとつ。 http://marukome.co.jp/marukome_omiso/hakkoubishoku/20121220/38/ ◆絵島生島事件(内藤清牧の頃)(第七代将軍家継の頃) 高遠 絵島 http://rengeji.jyoukamachi.com/eshima.html 三宅 生島 http://www.miyakemura.com/databankrekisi.html ※明治3年 版籍奉還、内藤頼直は、高遠藩知事 ※明治4年 内藤頼直は、高遠県知事 ※明治4年 高遠県は、筑摩県に合併 ※明治5年 高遠城は、民間に払い下げ、その後有志により公園へ ◎高遠領3万3千石 洗馬郷7村・上伊那郷14村・川下郷15村・春近郷8村・中沢郷15村・藤沢郷16村・入野谷郷11村 ※大正時代、高遠電気軌道(株)設立。 電車敷設が計画されて道が作られたが、計画は立ち消え。 高遠鉄道は幻の鉄道になってしまった。 (駅名は残っている。) 2015-10-3 Sat (0)
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