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沿革
沿革1
沿革1の続き
沿革2
沿革2の続き
沿革3
沿革(補足)
沿革1
小さなお店ですので、沿革を掲載するほどではありませんが、ご紹介させていただきます。(年代は、残っているものが少なく、わずかに残っているものからの推測もあります。亡父も調べながら保管してくれていましたが、大半は不折展や高遠城払下げのの関連から調べたものが多くなっています。)
◆明治9年(1876)、本家が三分家したことはわかっていますが、その中の当店初代が中町にて創業(下記記載から、菓子製造は安政の頃から下モ町からの可能性もあり?)御菓子製造元・和洋砂糖・銘茶・各国煙草を販売。
◆明治32年(1899)高遠広報に掲載の広告(写真)
(参考)元禄10年(1697)>文化6年(1809)>>天保10年(1839)>>>弘化2年(1845)に、下モ町(霜町)に菊屋,原徳三郎(菓子屋)の記載があります。
(徳次郎の生誕は天保12年ですので、菓子造りは安政の頃以降からということも…?)
藤七の文字も記載がありますので、店舗の場所も推測できます。→明治末頃からは、分家2軒が一緒になって、初代の次男が養子に出る際霜町の店舗も譲渡されている?(そうでなければ、何故霜町の不動産を次男に譲渡したか意味がわかりません?)
とすると、我が家の丸さの意味がわかってきます。
(参考)同じ年代の仲町にマルサ,菊屋(菓子)の記載もあります。
仲町 マルサ,菊屋(菓子)~菊屋商店(現在)
本町にも菊屋,原藤七の文字があり、(陶器,白木)を営んでいることはわかっていますから、松嶋屋・白木屋と共に高遠城の払下げ時の世話人の一人になっていたと思われます。
さらに、「仲間」原藤助(藤七の父?)の文字もあります。(図書館資料:掲載不可)
https://ja.localwiki.org/ina/霜町 etc より…
(ちなみに高遠饅頭の歴史は、天正9年(1581年)仁科五郎盛信の頃がはじまりらしい?)
◆当時の菓子箱(写真)
◆初代(明治38年(1905)隠居)から2代めにかけての菓子店の頃、明治14年(1881)頃に中村不折(当時16歳)が職人として働いていたことが、各種書物等に紹介されています。
◆写真集「高遠のあゆみ」にも昭和7年の店舗が写っています。(丸さ御菓子司)
◆高遠高校芸術コース書道専攻生制作の「不折を知って高遠を歩こう」にも2代めが隠居(昭和18年(1943)頃?)前から、葡萄園を営んでいた頃の不折の書が紹介されています。
菊寿園(現在:非公開) 作品を保存している菊屋商店は、元はお菓子を営んでいました。お菓子屋に不折は住み込みで働き午前中は勉強をしていろと言われましたので、不折は屋根裏で数学や漢字、習字などを勉強していたそうです。
(5代目も中学~高校3年までは、勉強部屋兼寝室として使用しておりました。)
※書物により、菊屋菓子店や店主の喜代太郎の名前を記載したものもあり、さらには遠い親戚(本家と思われます。)として頼ってきていることも記されているものもあります。(本家は諸町→下タ町)
(不折は、たまきやの数件となりに住んでいたようです。とも書かれているものもあり、それからすると本家が斜め前でしたのでそれを考えると菓子屋の始まりは諸町からの可能性もあります…?)
(但し、実家の隣の菓子屋で菓子職人として雇われと書かれているものも1か所だけありますが、本家が菓子屋の店舗をそこに構えていて明治半ば頃までいたとしても、店員として働いていたのは明治14年頃の分家の中町なので、諸町の菓子屋ということの確認が取れるものがありません…? 諸町→中町の可能性もありますが…?)
◆高遠歴史博物館で行われたH28.03-6月に行われた中村不折生誕150年の不折展の様子(写真)
丁丑元旦とありますので、昭和12年の広告。
大正10年(1921)~昭和12年(1937)に3代めが清水町で原製絲場~昭和42年(1967)まで菊屋木炭問屋を営んでいました。
この間の昭和8~11年頃から2代目の菓子店は昭和18年頃まで店員に店を任せていたと思われます。(昭和7年までは2代目が丸さ菊屋として営んでいたことは写真からわかっています。)
(2代目が菓子店から隠居したのは昭和18年、その間(昭和8年~昭和18年まで)の昭和12年の広告と、2代目が葡萄園を始めたのが昭和18年前頃からなので、収穫まで6~8年要することを考えると、昭和7~9年頃から準備を始めており、丁度合致いたします…)
丸さの一号店で「一さ」?
「元祖 高遠まんぢう」?(高遠饅頭の歴史は古いので…)
梅乃屋廣報のチラシ(元歴博館長有賀氏より)
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※昭和18年後から昭和40年前まで仲町は貸店舗。(瀬戸物)
沿革1の続き
明治5年(1872)になると民間に払い下げられ、城は撤去された。
写真は歴博資料から、下記(参考)は図書館資料から
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/6592/1/BB25180515_169_176.pdf
↓
(参考)建物等の処分を取り仕切ったのは陸軍東京鎮台第二分営で、入札の結果、城下の商人松島屋(下寺徳次郎)が明治5年(1872)9月に665両で建物と樹木を一括で購入した。松島屋は、購入した建物や樹木を物件ごとに細かく分類し、番号をつけ、予定価格を定めた上で、11月にさらなる競売を行った(図2)。
この競売には様々な人が参加しており、門や土蔵などを始め、障子や襖、釘隠しといった建具、礎石、庭石にいたるまで、あらゆるものが予定価格を超える高値で、城下や近郷の富裕層に買い取られた。その後、建物は順次取り払われていき、積雪期や作業人足が集まらない農繁期を見送った後、翌明治6年(1873)7月までに取り壊し、搬出を終えた。樹木の取り払いも同年12月までに終えている2)。
こうして更地になった高遠城の土地は、大蔵省の所管となった本丸と笹曲輪、南曲輪を除き、二ノ丸や三ノ丸、法幢院曲輪などが民間へ払い下げられている。
世話人(写真)と購入したもの(写真掲載略)のところに、菊屋の文字がある。
何を購入したかは、達筆(草書体の崩し字らしい?)すぎて何と書いてあるかわからない?
(参考)明十社(めいじゅうしゃ)は、高遠町にあった製糸工場として、沿革2と同じ建物の写真のみが掲載されていますので、(明治8年頃の建築と思われますので、この建物に利用されている可能性もあります…?
https://ja.localwiki.org/ina/明十社
(参考)明十社(めいじゅうしゃ)は、長野県上伊那郡高遠町にあった製糸工場。
として、下記と同じ建物の写真とMAPが掲載されています。(但し、番匠・旭町の地名は記されていますが、藤沢の地名はあるが清水町の記載はありません?)
(写真・MAPと地名が合致しないので、藤沢は清水の誤りではないかと思われます?又は藤沢にもあって清水は内容のみ記載漏れ?)
(明治8年頃の建築と思われます。~大正9年頃まで?)
(但し、下記をみると当時は1階と2階の南側を除く部分であったと思われます。)
https://ja.localwiki.org/ina/明十社
明十社は糸取り釜の開発をしていて、丸千組に制作を依頼しそれを全国に販売していたようなので、ココから販売していた可能性があります。
昭和40年頃まで、丸千組が製造していたと言われる陶器類が倉庫に各種残っていたのは覚えています。
(だから、工場としての記載がないのかもしれません?その倉庫は、解体してしまったので現在は残っておりません。)
(参考)Strolyには、明十社の内容に写真は同じで「明十社ではないが高遠製糸工場跡 」(高遠製糸株式会社)とlocalwikiの記事に追記する形で記載されている?(大正9年~)
https://stroly.com/maps/_TAKATO_1434004509/
また、大正14年には3代目が高遠製糸工場の監査役になっていることが高遠町誌には記載されている。(沿革の補足の写真)
(第一回営業報告書 高遠製糸株式会社(長野県上伊那郡)自大正9年~至大正10年は、オークションサイトで売られている。)
※ 高遠町誌には、大正10年に製糸製造業を開始・大正14年に3階建工場住宅を新設?したと記載されている。建物があまりにも古く明十社の建物を利用して増築しているようにしか見えないから新設なのだろうと思われます?
(おそらく3階部分だけだろうと思われます。また、仮にこの建物の最初の建築が明十社でなくても、1-2階建ての元になる建物があったことは確かといえそうです。)
昭和6年頃から「原製絲場」に社名が変わっている。
(製糸業の大不況を乗り切る。)
昭和10年にも増築している?
(この時は、2階の南側の1部屋と思われます。)
昭和12年に全国製糸工場整備令が公布され廃業になる。
昭和16年整備令が解かれ再開。
昭和19年経済界不況の為閉鎖。
結局、この建物は明十社+高遠製糸+原製絲場と言うことになりそうです。
明十社の建物の写真として掲載していても、増築により原形をとどめていないので、もともとあった場所という書き方しかできないのかもしれません?
そうでなければ、タイトルが明十社で写真とMAPが掲載されている意味がなくなってしまう?
沿革2
◆大正10年(1921)~昭和12年(1937)に3代めが清水町で原製絲場を営む
昭和16-19年再開もしています。
昭和6年(1931)当時の電話帳(写真)
◆原製絲場と菊屋木炭問屋があったところ(写真)が画家等に描かれたり、旅行雑誌(サンデー毎日)に紹介されたりしています
◆高遠ブックフェスティバル(2015.09月)のポスターでも紹介されています
◆堀越哲朗氏のコラム(マザーアース通信)にも紹介されています
http://www5b.biglobe.ne.jp/~earth21/unmei9.htm
◆つげ義春氏の旅写真にも紹介されています
http://www5b.biglobe.ne.jp/~earth21/unmei9.htm
http://manriki.sanpal.co.jp/tsuge/takat_001.html
※つげ義春氏は、2022.02.22日本芸術院新会員に選出されました。
(参考)道路に合わせて1~2階を建てて3階をのせてあるように書いてあるものもありました?
◆昭和12年(1937)~昭和42年(1967)まで3代めが菊屋木炭問屋を営む(写真)
(昭和16-19年は原製絲場も再開している。)
(この車庫は、左横の建物とは別になります。現在はありません。)
◆当時の荷札(写真)
沿革2の続き
(沿革2の続き)
つげ義春「貧困旅行記」
今日の新聞で、「つげ義春」氏が日本芸術院新会員に選出されたとありました。
まえまえから、古書店「陽炎堂」の店主Dさんから聞いておりましたが、驚いております。
(沿革2の続き)
(写真は、つげ義春氏の「つげ義春とぼく」の挿絵より)
◆高遠菊屋アパート
執筆者は、堀越哲朗氏
http://www5b.biglobe.ne.jp/~earth21/unmei9.htm
(沿革2の続き)
◆原製絲場と菊屋木炭問屋があったところ(写真)が画家等に描かれたり、旅行雑誌に紹介されたりしています
サンデー毎日 昭和53年4月15日発行
沿革3
◆昭和40年(1965)から4代目の菊屋商店(燃料小売)
店舗は、菓子店の頃の仲町に戻る(写真)
※ (当時の【高遠新聞】がスッパ抜き、本人も知らないのに4代目は3代目の養子とおくやみ欄に記載され、高遠全域にに知れ渡り本人が亡くなるまでわからなかったことが、やっと今になってわかってきました。ここでは記載できませんが、江戸初期以降に本家とも血縁の可能性のある由緒ある家柄からの養子とわかつてきました。4代目も真実を知らずに亡くなったかと思うと…悲しい!! 本人にも伝える術がない!?)
看板は、5代目が制作
◆平成12年(2000)ホームページを立ち上げる
同時に、家庭雑貨のネット通販をはじめる
◆平成20年(2008)から燃料関係のネット通販も加える
◆平成22年(2010)灯油販売を中止
◆平成26年(2014)LPガスの販売を中止
◆平成27年(2015)から4代目の妻が継承、木炭関係・日用品・生活雑貨に限定
(建物は、平成2年から)
※5代目は、もともと商工会自体は未加入です。
但し、知らぬ間に商工会の青申会に加入させられていた為、加入の取消をお願いしたけれど年度途中の退会不可とのことで、やむを得ず1年後退会しようとしたら2年目から役員とのことで丸2年で退会届を提出したらさらに役員の任期は2年間とのことで、3年目の役員の任期切れを待って退会。
(商工会自体との間が上手くいっていないから入会していないと言うことはありません?なぜなら、商工会自体からも加入の話すらありませんし…。もともと店舗をやらないのに入会する必要がなかったからだけです。出席すべきか悩みながら青申会の会議にも2回出席しているけれど、ココでは発言すらしておりません。…噂を耳にしたのであえて書き添えておきます。)
◆やるとしても通販のみしか考えていなかった(税務署の青色申告は申請済)のが上記の為店舗をせざるを得なくなり、平成28年(2016)から5代目が食品・ケア日用品・健康食品・医薬部外品を品目を限定して店舗に加える
◆平成28年7月15日医薬品販売業許可
◆平成28年8月2日特定販売届出、ネット販売を開始
くすりきくやYahoo店
https://store.shopping.yahoo.co.jp/kikuya174/
◆平成19年から始めた地域情報「しなのドットコム」は、約10年で約76万人のアクセスがありましたが、平成29年10月26日で閉鎖させていただきました。
※地域情報は、このgreenホームページ内及びFacebookにも掲載してあります。
沿革(補足)
不折の記事
菊屋菓子店で働いていたことが記載されています。
高遠町誌
不折の記事
遠い縁者の菊屋菓子店で働いていたことが記載されています。
中村不折 中原光 著
3代目の記事
略歴が記載されています。
高遠町誌
POST
*
EDIT
きくや GREEN*
Green