南八甲田山縦走道路「俗称:旧県道」
十和田湖御鼻部山と猿倉温泉を結ぶ登山道「俗称:旧県道」は、以前まで軍用道路として作られたと噂されていたが、近年、地元山岳愛好者の調べで八甲田から十和田湖に抜ける観光道路として作られた県道であることが分かった。
話しは藩政時代までさかのぼり、青森は冬になれば雪が積もり寒さが厳しい北東北の本州最北の極寒地。
その極寒地に、津軽藩・南部藩とも藩政時代は幕府の流刑地としていた。津軽藩にはキリスト教禁教令による流刑地とし、南部藩は罪を犯した者を下北半島に。そして、明治維新後は会津藩もまた冬の寒さが厳し青森へと追いやられた。
青森へは冬の寒さあってなのか、それとも北のはずれだからなのか、その後、明治・大正・昭和初期、これといった産業もなかったし、定着もしなかった。
そんな県民の主な仕事は農業、漁業、林業、冬になればみんな出稼に行った。
その中でも一番大変であったのが農民の地主小作人制度であった。

藩政時代から続き小作契約に当たって地主に支払う借地権料の他、毎年「年貢」として、小作料を物納しなければならなかった。小作料の利率は通常「全収穫高の50%」、場合によっては「60%という高い利率」で地主に収めなければならず、小作料は「物納が原則」で収穫が無いときは常に泣いていたという。 そういう状況の中、昭和の大恐慌が起こり、大正から続いく大凶作、井上準之助大蔵大臣によるデフレ政策と豊作による米価下落、漁村の不漁、出稼ぎの減少など、次から次へと不況が続きざまに起こり昭和初期は大不況となり、またファッショ的な時代であった。

このため農村では食べる物が無くなり、「口減らし」という家計の負担を減らすため子供を奉公に出したり養子に出したりしていた。しかし、当時の農村で文字の読み書きが出来ない者も多く、娘を買い求めに来た仲買人らに女工・奉公などと記載してある契約書に判を突き1人150園から450園で売ってしまい、そのあと何処へ連れて行かれたのも分からなくなり、農民は騙され嘆いた。さらに凶作が続くと借金は減らず、次から次へと姉妹を売ることになり、遠くは、南方、南洋諸島、満州へと、これが「東北の娘身売り」となった。
昭和6年1月から昭和9年10月までの3年10ヶ月で青森県から売られた娘は、6,893人。

また、農村出の青年は兵隊に行き、満州の戦地に行ったさい家族から届いた手紙には「今年も凶作、お前が戦死してくれれば家族は助かる」と書かれたのを読み、恩給目的に自ら命を絶ったものが多かったという。さらに連隊本部に遺骨を引き取りに来た家族が営門を出たとたん親族たちによる遺骨の奪い合いが平然と行われる光景を目の当たりにした青年将校達は苦しみ悲しんだと言われ、青森歩兵第5連隊と2.26事件の関わりは深い。
そのこともあり農村を救済しようと県内各地で国策の農村救済土木工事が行われるようになった。

昭和11年に十和田湖奥入瀬は国立公園に指定となる時期に、十和田湖・奥入瀬・八甲田山系の道路整備が進められ、観光産業に取り組み始めた。これをきっかけに南八甲田山の自然豊かな景観を観光資源に充て、農村貧困からの脱却として猿倉温泉と十和田湖御鼻部山の間に観光バスを走らようと昭和5年ごろから救済土木工事で延長24.5kmの県道を作り始めた。
これが「南八甲田山縦走県道路」の始まりである。

工期は、昭和5年の雪溶けから昭和10年10月の完成予定であったが、昭和10年8月21日から24日までの間に豪雨が発生、これが青森県史上はじまっていらいの水害「奥羽豪雨」である。豪雨は100年に一度来ると言われ、青森県の三分の一が水に浸かり県内の農作物は流され被害は大きかった。この水害により、完成まじかの南八甲田縦走県道路は橋・ヒューム管・土管が流され、法面は土砂崩れが起き、道としての機能が不能となってしまった。その後、国の豪雨被害対策費用として被害地域には援助を受けたが南八甲田縦走県道路の修復費用は含まれず、また、農林省の借用地で更新時の更新忘れも尾を引き、手つかずのままシナ事変と太平洋戦争へと突入し、とうとう縦走道路の県道は、日の目を見ることが出来ず今に至った。

当時の記録を探ると十和田方面から農民を沢山集め1日1人40銭から70銭で雇い、山中を開削し路面に石を敷き、法面には石を積み、沢には橋をかけ、土管・ヒューム管を敷設したと言うが、実際どれだけの農民でつくられたのか、また施工方法は、季節はいつからいつだったのか、宿舎は、などなどといったことが今も謎につつまれている。ただ当時を探れば探るほど農民の苦労が、あの旧県道わきにたたずむ石垣や土管・ヒューム管が物語、来る日も来る日も、霙や雨、風雨、小雪が降る中、赤切れとなった手で「娘売らせない」「娘売りたくない」と涙流しながら石垣の石を積み上げた、と言っているような気がする。
そう想うと、この旧県道は血と汗と涙の結晶の道なのであろう。

現在、この旧県道は猿倉温泉から十和田湖御鼻部山まで続き、「俗称旧県道」と言われ、縦走すると当時の面影を偲ぶことができる。また、そこには尾瀬ヶ原を凌ぐ湿原や北八甲田では見られない高山植物群も見られる。
私たち協議会は、この旧県道にまつわる昭和初期の出来事をぜったい風化させてはならいと言うことと、旧県道の使い道を再確認し、猿倉温泉~御鼻部山の間を木道とし歴史・文化・伝承・自然環境保全を取り入れたエコツーリズム・トレッキングコースとして再利用したいと考えています。

【参考文献】
著者・成田徹「南八甲田縦走路(猿倉温泉~御鼻部山ー俗称旧県道)、青森県近代史資料4、野々記録、右翼と青森県、私の昭和史、ニ・ニ六事件、東奥日報新聞、東奥年間、人身売買、昭和東北大凶作、新聞資料東北大凶作、ヤマセと冷害、郷土史2青森県、従軍慰安婦、従軍看護婦、青森県農地改革史、事件と共に50年、十和田村史、十和田湖町史、取材協力:旧十和田湖町長 渡辺毅、元三本木営林署 三浦文吉
(文)協議会理事:横浜愼一/パラオ諸島戦史研究会
皇族と八甲田
「朝まだき十和田湖岸におりたてばはるかに黒き八甲田見ゆ」
2012年1月14日、皇居で新年恒例の「歌会始の議」で皇太子徳仁親王が歌われた歌です。
この年のお題は「岸」。
東日本大震災直後の東北を想い、お題を「岸」としたとのことです。
なぜ、十和田湖と八甲田なのか。
そもそも皇族と八甲田・十和田湖の関係は、第8師団弘前歩兵31連隊第3大隊長に赴任した秩父宮雍仁親王から始まる。

秩父宮雍仁親王は明治35年6月25日生まれ、昭和天皇(憲仁親王)の弟宮にあたり、幼少のころは兄の憲仁親王、弟の宣仁親王の3人兄弟の中でも最も活発な性格で青年期にはスキー、登山、ラクビ―などスポーツ好きの皇族であった。
スキーにおいては、日本アルプスや上高地の山小屋に泊まり、仲間たちと登山をしながらスキーを楽しんだ。登山では、ウォルター・ウェストンと交際があり、スイスのベルナーオーバーランド地方の主な山々を征服し、大正14年8月31日にスイス・マッターホルンを目指し登頂されたアルピニストである。

昭和10年8月10日、スポーツ好きな秩父宮は節子妃殿下を連れ添い皇族用の特別列車で弘前駅に到着した。その時の弘前市内は天皇の弟宮を目にしたことで興奮は高まり、万歳の叫びがなんどもあがったという。秩父宮雍仁親王陸軍少佐33歳、第8師団弘前歩兵31連隊第3大隊長として新兵の教育にあたるというのが主な任務であったが、当時の青森県は貧困の限界に達していた。

弘前在任中は、弘前を流れる川で釣りを楽しんだり、通りがかりの人に声をかけたり、一人で屋台に焼き鳥を食べにいったりと、いろいろ庶民的な交流を自ら行っていた。また、節子妃殿下も、せっかく雪国に来たのだからとスキーを覚えることになり、青森営林署造林主任の小笠原二郎が手ほどきをした。大鰐スキー場では、宮様、妃殿下をお迎えして盛大なスキー大会が行われたりと、夫婦であちらこちらへとスキーに出かけ楽しんだようだ。
地元には、こんな話しがある。

麦藁帽子をかぶり一人で釣りをしている者がいるので、通りかかった農夫が「父っちゃ、何釣ってるんだば?」と声をかけ、津軽弁でいろいろ話しかけながら釣りを見ていた。そのうち農夫は、どっかで見たことのある顔だがと思いながら、誰だかうかんでこないまま帰ったが、あとで宮様とわかり、どってん(動転)して腰をぬかしたという話が残っている。

昭和10年8月21日から24日、100年に一度のいままでにない豪雨が青森県を襲い十和田湖の降水量が四日間で427mmとなるなど、青森県の三分の一が水に浸かった。秩父宮は豪雨の中、何度も各方面に足を運ばせた。豪雨後、8月26日被災地に七百ニ十ニ圓、9月10日に一千圓、二度も御下賜金をいただいた。本来、下賜金というものは死亡者や家屋全壊者に限られていたが二回目の下賜金は農民の水害に使わられるようにとことで、農民の事情を深く感じての心配りであったと言われている。

昭和11年2月22日、秩父宮引率の下士官教育山中行軍演習時、百数十人の兵士が霙や風の強いなかを訓練中、吹雪が激しくなり道に迷った。数メートル先がも見えなくなり二時間、三時間歩いたが方向はまったくわからなくなってしまった。先頭を歩いていた秩父宮は万が一を考え「昼食は半分にしろ、半分は何かあるかわからないから残しておくように」と命じた。兵士の中には明治35年1月の八甲田遭難事件を思い出し、脅えた兵士もいたという。吹雪きが一段と激しくなったとき、秩父宮はマントを脱ぎ棄て単身山の山頂に登り、磁石と地図を頼りに方向を確かめ、下山の方向を見定め、兵士たちを励ましながら先頭にたって山を降り始めた。そのころ連隊本部では大騒ぎになり、誰が伝えたのか新聞社も集まり「殿下、遭難」とさわいでいたときに、平然と山から降りて来たという話がある。また、第31連隊では除隊となった兵士を召集し北海道で演習があった。そこに向かう列車の中で睡眠がとれているのか、行軍についていけるか、秩父宮はそれとなく目を配り、そしてことあるごとに召集兵のもとに行き「家族は元気か」「仕事はどうか」「身体はどこもなんともないか」と話しかけた。青函連絡船が函館に着いた時、兵士たちが三等船室からからでて並んでいると、秩父宮はもういちど船室に戻って、兵士たちの忘れ物がないか、点検して回ったりもした。並んだ兵士の最後尾にいた四十代の兵士ところにいき、水筒の紐に手をかけながら服装を直し、背のうを背負うのを手伝い「どうか、身体は大丈夫か。いまは畑はいそがしいのか」とたずねた。感激した兵士は、涙声で答えていたといわれている。

昭和11年10月5日、高松宮妃殿下御来訪。(昭和9年11月に海軍大学校に入学した高松宮殿下は、昭和10年9月演習中大湊港に寄港したのを機に兄宮を心配し弘前まで足をのばし訪ね、勢津子妃を囲み夜遅くまで楽しんでいた。)
昭和11年10月8日、三笠宮殿御来訪。陸軍士官候補生の三笠宮が北海道大演習御観戦の帰りに弘前に立ち寄り、秩父宮妃殿下、高松宮妃殿下、三笠宮殿下と三殿下が県内を視察。10月9日、八甲田山を経て奥入瀬渓流・十和田湖を観て周り、十和田湖国立公園の毎年の観光客の状況と観光シーズンの天候、付近の山々の状況などを聞かれ、十和田湖奥入瀬の渓流の絶景を御賞讃の光栄に浴したという。
秩父宮弘前滞在中、皇族方の御来訪が多かったのである。

そういった弘前での生活も終わり、昭和11年12月7日、秩父宮は弘前を発つときがきた。
粉雪が降る中、営門前に並んだ将兵に敬礼をしている秩父宮は、将兵ひとりひとりに目を移して別れの挨拶をした。
「自分の身体はこの地を去っても心は去らないということを申し添えておく」と言って弘前をあとにした。これが、よくよくの八甲田山との結びつきとなるのである。

昭和17年ごろから公式非公式と弟宮の高松宮殿下、三笠宮殿下が青森にスキーを楽しみに来られるようになり、終戦後は、八甲田、岩木山、釜臥山などたびたび来られ、スキー関係者を激励されていたという。
昭和28年2月、秋田県大舘市でスキー国体と全日本選手権大会が開催されたとき、前青森営林局長の柳下鋼造さんが御来場された高松宮に「八甲田にもう一度御来岳願ひ度い」と申し上げ、同じ席にいた酸ヶ湯温泉専務の大原さんが更に再度「御来岳され度い」と申し上げたげたそうである。その際に高松宮は「八甲田には指導票がまだ出来て居ないそうではないか、それでは行けないよ」と仰言られたという。またすぐ傍に居た盛岡鉄道管理局長の関四郎氏に「八甲田は君の管轄ぢゃないか、八幡平にばかり力を入れて居る様だが、八甲田は八幡平よりはずうといいのだから少し力を入れ給え」と強く言われたそうだ。このことから前局長の柳下さんは、一酸ヶ湯の問題や、財政に恵まれない県を相手にするより、営林局でやらなくてはならいなと考え、国体からお帰り後早急に話が定まり、経費も経理部長や菅造林課長の英断で造林費から思い切って出すことになり、指導票の予定地の研究、標板の構造や記入事項等についてスキー部関係者内で相談を進め、上司の諒解を得て、早速東京の専門製造点に発注。
これが八甲田山にあるスキー指導票の設置の始まりです。

昭和32年、昭和44年4月、指導票が付けられた八甲田に高松宮がおいでになられ、昭和44年の際には、現在の宮様コースをお通りになり、これを記念に「宮様コース」の名が付き利用された。
昭和55年5月には、三笠宮殿下、寛仁親王殿下、容子内親王殿下が春の八甲田に来られています。そして、今も皇族の方々が来られ八甲田のスキーを楽しんいるようです。

スキー指導票、現在ではGPSなどを用いて冬山・春山スキーに入り楽しむことができますがGPSが普及するまで吹雪や濃霧の視界不良の時は、いつもスキー指導票が目印になり、多くのスキーヤーの命が助かったのも事実です。
おかげで八甲田のスキーは安全に楽しめ多くのスキー観光客が訪れ地元には大きな収入源となりました。
この指導票は、現在も掲げられ南八甲田山猿倉温泉と猿倉岳・駒ヶ嶺を結ぶ登山ルートには「櫛ヶ峰コース」「猿倉コース」と多くの看板が見られ当時を偲ぶことができます。

昭和10年の秩父宮雍仁親王の弘前入りから始まり、高松宮殿下、三笠宮殿下、三笠宮殿下、寛仁親王殿下、容子内親王殿下と多くの皇族の方々が八甲田・十和田湖に来られたのでした。このことから青森は、今日まで皇族の方々による支えで救われた面が数々あったと言っても過言ではありません。
2011年3月11日、東北地方は大震災に遭われ多くの方々が犠牲となりました。また、観光地の八甲田・十和田湖・奥入瀬も観光収入が減り、そこで働いていた人々は職を失い故郷を追われてしまいました。
こうしたなか「朝まだき十和田湖岸におりたてばはるかに黒き八甲田見ゆ」は、この地のことを想われ皇太子徳仁親王が歌ったものでしょう。
この歌は、私たちの心の支えになりました。

【参考文献】
著者:成田徹「八甲田山の山岳スキー指導票」「八甲田山スキーの歩み」、樹林を縫って、昭和天皇と秩父宮、秩父宮両殿下御高徳録、東奥日報新聞、東奥年間、青森県水害記録、青森県近代史4
(文)協議会理事:横浜愼一/パラオ諸島戦史研究会
乗鞍岳の御神体
乗鞍岳山頂に岩の御神体があります。
御神体のいわれは、南八甲田の南側を牛馬の放牧地としたのがきっかけです。
昭和43年前まで、南八甲田櫛ヶ峰を登山した人たちが「黄瀬湿原の中を牛が歩いていた」「櫛ヶ峰の麓で牛と一緒に牛追いに出会った」と驚いた話しをしてくれたことがありました。
この放牧と御神体について、1998年発行された東奥日報社の「青森県の山110」に記載されていましたので抜粋し載せます。

「南八甲田の静かな山・乗鞍岳は、“山の神”と人々から尊敬され十和田湖開発に大きな功績があった太田吉之助(1878~1962・十和田湖町=現・十和田市)と大きくかかわっている。いや、吉之助抜きには乗鞍岳を語れない、といってもいい。吉之助は本業が農業だったが、進取の気質にあふれた人だった。鉱山、養魚(十和田湖にヒメマス放流)、植林(造林技術の改良普及)、牧畜、山岳開発(大町桂月を十和田湖や八甲田に案内)-の5事業を、自分の生涯に課せられた使命、と信じ、そのすべてにおいて時代の先端を突っ走った。とくに力を入れたのは探鉱で、八甲田をくまなく歩き回った動機になった。 鉱山を開くことについて吉之助は 「これは山師の仕事ではなく、埋もれた地の宝を世に出すことで村、県、国を富まそう、とするものだ」と語っていた、という。1906(明治39)年4月15日、探鉱の過程で発見したのが、乗鞍岳南西ろくの山上湖・黄瀬沼だった。09年には仲間と再び沼にでかけ「太田沼」と命名した。この沼は長く、太田沼と呼ばれたが、役場が「個人の名が使われるのは、まずい」と難色を示した。吉之助は「自分が見つけた沼だから太田沼でいいんじゃないか」と主張したが、結局退けられ黄瀬沼と改名された。吉之助のおいの太田鉱一郎さん(91)は「役場と吉之助の、このやりとりを私はそばにいて聞いた。よく覚えている」と振り返る。乗鞍岳山頂から南側を眺めると、眼下に広大な森が広がり、その規模に圧倒される。この山ろくは黄金平、黄瀬平と言われ、吉之助はここに牧野を開いた。今でいう林間放牧だ。01年のことで、1200ヘクタールという規模は、国有林野内の牧場としては当時、県内屈指のものだった。吉之助は牧場を開いたとき、乗鞍岳山頂の大岩をまつり牛馬の守護神とした。吉之助は山頂に鉱一郎さんを2回ほど連れていった。忙しい吉之助は、鉱一郎さんに「あとは任せた。毎年、この神様の石を拝んでくれ」と託した。
毎年お参りに行くには、道がちゃんとしていなければならない。そこで鉱一郎さんは、十和田湖町沢田地区の人たちを何人か連れていき、乗鞍岳登山道を開いた。これが現在の「一の沢ルート」だ。鉱一郎さんは、吉之助の頼みを忠実に守り、奥さんのチヨさん(89)とともに毎年10月、乗鞍岳に登り続けた。大岩をしめ縄でぐるり巻いて、岩の上に御幣をあげる。そしてコメとお神酒を供える。鉱一郎さんがかつて牛馬を飼っていたころは、自分やほかの人たちの牛馬の安全を祈ったが、自分が飼わなくなってからも「牛馬を飼っているすべての人のために」と安全を祈ってきた、という。しかし、高齢のため、5年ほど前から参拝登山をやめている。吉之助が乗鞍岳山頂の大岩を牛馬の守護神としてまつってからの“伝統行事”が途絶えたのだ。引き継ぐとすれば鉱一郎さんの息子の大英さん(65)。参拝登山が途絶えるのは残念ですね、と水を向けたら大英さんは 「そう言われれば、そうかもしれない」と苦笑した。大英さんは東京に住んでいる。引き継ぐのは不可能に近いのだ。太田家は変わっても、乗鞍岳山頂の大岩は何事もなかったかのように鎮座している。 」

昭和43年大規模草地改良事業(放牧地を林野庁が植林保護の名目で規制、十和田湖町が林野庁から牧場となる場所を払い下げ牧場。)が行われる以前、南八甲田山中は牛馬の放牧地でした。本格的な八甲田山中の放牧は「大正15年黄瀬放牧記録」に国が無立木地や荒廃地への植林を進めるにあたり、大字沢田は生内での放牧を禁じたため、明治34年代替地として乗鞍岳(南八甲田山)南西の黄瀬平を選定し、黄瀬牧場と命名したとされています。このことから明治34年から十和田市側の八甲田山中面積1,200町歩に牛馬が放牧されていたようです。放牧の理由として、牛馬にとって笹は好飼料で病身の牛馬に与えれば回復が早いと言い、牛馬が放牧中最も肥大するのは筍の時期であり、笹の中ではネマガリダケ系統のものが最良といわれていたそうです。このため、牛馬は群れで山の上から散らばりながら笹を喰いながら次第に下り、最下部に下がれば再び群れで上にのぼり、下降を繰り返していたといいます。また、牛馬はブナの稚樹を食さず、障害となる熊がいない点も放牧の利点もあったとか。
大正時代に入ると、黄瀬牧場を廃止し猿倉温泉付近に2,000町歩を設定したが、気候・地勢等が放牧に不敵なことが判明、結局、黄瀬牧場に戻ることになります。その後、仙ノ沢、惣辺、相ノ窪、黒森、谷地、幌内山の総面積4092.3平方メートルとなり、放牧されていた頭数は馬1,585頭、牛782頭、合計2,367頭。その放牧された牛馬20頭前後には、4~5人の看視人が付き、八甲田山中での寝泊りはブナやトドマツの木の根元で行ったといい、昭和40年代には、睡蓮沼・高田萢・乗鞍岳・櫛ヶ峰・黄瀬萢付近で悠然と草をはむ姿を見られ、南八甲田山一面が放牧地となっていたといいます。
これが登山者が見かけた牛と看視人になるのです。
しかし、2千頭の牛馬の食害や蹄による根茎の切断で笹の生地は3年で殆ど枯死状態になり4年、5年で完全に絶滅し、林地は灌木の殆どない一斉林となり、林床は下駄でも歩ける状態だったとか。
現在、十和田北線の蔦と谷地の道沿いには林内放牧によって成林となったブナの二次林が見られますが、大町桂月の「蔦の神秘境」によると当時は巨木だけ立つ芝生の見通しの良い平地だったようです。
このことから、放牧地南八甲田は村の重要な現金収入部門(放牧・炭焼き)だったので太田吉之助は乗鞍岳山頂に岩を守護神の御神体として祀り、ここで生活をする人々や牛馬の安全を祈願していたのでした。

今も、乗鞍岳の頂きに立つと岩の御神体があり、そこから十和田湖方面を望むと当時の「放牧」や「炭焼き」の面影を偲ぶことができます。
*筍を食べて育った牛の肉は黒毛和牛と違い、とても美味しかったそうです。

【参考文献】
東奥日報社の「青森県の山110」、八甲田の変遷出版実行委員会「八甲田変遷」、十和田村史、十和田湖町史、青森県史近代史4 、取材協力:旧十和田湖町町長 渡辺毅
(文)協議会理事:横浜愼一/パラオ諸島戦史研究会