乗鞍岳の御神体
乗鞍岳山頂に岩の御神体があります。
御神体のいわれは、南八甲田の南側を牛馬の放牧地としたのがきっかけです。
昭和43年前まで、南八甲田櫛ヶ峰を登山した人たちが「黄瀬湿原の中を牛が歩いていた」「櫛ヶ峰の麓で牛と一緒に牛追いに出会った」と驚いた話しをしてくれたことがありました。
この放牧と御神体について、1998年発行された東奥日報社の「青森県の山110」に記載されていましたので抜粋し載せます。
「南八甲田の静かな山・乗鞍岳は、“山の神”と人々から尊敬され十和田湖開発に大きな功績があった太田吉之助(1878~1962・十和田湖町=現・十和田市)と大きくかかわっている。いや、吉之助抜きには乗鞍岳を語れない、といってもいい。吉之助は本業が農業だったが、進取の気質にあふれた人だった。鉱山、養魚(十和田湖にヒメマス放流)、植林(造林技術の改良普及)、牧畜、山岳開発(大町桂月を十和田湖や八甲田に案内)-の5事業を、自分の生涯に課せられた使命、と信じ、そのすべてにおいて時代の先端を突っ走った。とくに力を入れたのは探鉱で、八甲田をくまなく歩き回った動機になった。 鉱山を開くことについて吉之助は 「これは山師の仕事ではなく、埋もれた地の宝を世に出すことで村、県、国を富まそう、とするものだ」と語っていた、という。1906(明治39)年4月15日、探鉱の過程で発見したのが、乗鞍岳南西ろくの山上湖・黄瀬沼だった。09年には仲間と再び沼にでかけ「太田沼」と命名した。この沼は長く、太田沼と呼ばれたが、役場が「個人の名が使われるのは、まずい」と難色を示した。吉之助は「自分が見つけた沼だから太田沼でいいんじゃないか」と主張したが、結局退けられ黄瀬沼と改名された。吉之助のおいの太田鉱一郎さん(91)は「役場と吉之助の、このやりとりを私はそばにいて聞いた。よく覚えている」と振り返る。乗鞍岳山頂から南側を眺めると、眼下に広大な森が広がり、その規模に圧倒される。この山ろくは黄金平、黄瀬平と言われ、吉之助はここに牧野を開いた。今でいう林間放牧だ。01年のことで、1200ヘクタールという規模は、国有林野内の牧場としては当時、県内屈指のものだった。吉之助は牧場を開いたとき、乗鞍岳山頂の大岩をまつり牛馬の守護神とした。吉之助は山頂に鉱一郎さんを2回ほど連れていった。忙しい吉之助は、鉱一郎さんに「あとは任せた。毎年、この神様の石を拝んでくれ」と託した。
毎年お参りに行くには、道がちゃんとしていなければならない。そこで鉱一郎さんは、十和田湖町沢田地区の人たちを何人か連れていき、乗鞍岳登山道を開いた。これが現在の「一の沢ルート」だ。鉱一郎さんは、吉之助の頼みを忠実に守り、奥さんのチヨさん(89)とともに毎年10月、乗鞍岳に登り続けた。大岩をしめ縄でぐるり巻いて、岩の上に御幣をあげる。そしてコメとお神酒を供える。鉱一郎さんがかつて牛馬を飼っていたころは、自分やほかの人たちの牛馬の安全を祈ったが、自分が飼わなくなってからも「牛馬を飼っているすべての人のために」と安全を祈ってきた、という。しかし、高齢のため、5年ほど前から参拝登山をやめている。吉之助が乗鞍岳山頂の大岩を牛馬の守護神としてまつってからの“伝統行事”が途絶えたのだ。引き継ぐとすれば鉱一郎さんの息子の大英さん(65)。参拝登山が途絶えるのは残念ですね、と水を向けたら大英さんは 「そう言われれば、そうかもしれない」と苦笑した。大英さんは東京に住んでいる。引き継ぐのは不可能に近いのだ。太田家は変わっても、乗鞍岳山頂の大岩は何事もなかったかのように鎮座している。 」
昭和43年大規模草地改良事業(放牧地を林野庁が植林保護の名目で規制、十和田湖町が林野庁から牧場となる場所を払い下げ牧場。)が行われる以前、南八甲田山中は牛馬の放牧地でした。本格的な八甲田山中の放牧は「大正15年黄瀬放牧記録」に国が無立木地や荒廃地への植林を進めるにあたり、大字沢田は生内での放牧を禁じたため、明治34年代替地として乗鞍岳(南八甲田山)南西の黄瀬平を選定し、黄瀬牧場と命名したとされています。このことから明治34年から十和田市側の八甲田山中面積1,200町歩に牛馬が放牧されていたようです。放牧の理由として、牛馬にとって笹は好飼料で病身の牛馬に与えれば回復が早いと言い、牛馬が放牧中最も肥大するのは筍の時期であり、笹の中ではネマガリダケ系統のものが最良といわれていたそうです。このため、牛馬は群れで山の上から散らばりながら笹を喰いながら次第に下り、最下部に下がれば再び群れで上にのぼり、下降を繰り返していたといいます。また、牛馬はブナの稚樹を食さず、障害となる熊がいない点も放牧の利点もあったとか。
大正時代に入ると、黄瀬牧場を廃止し猿倉温泉付近に2,000町歩を設定したが、気候・地勢等が放牧に不敵なことが判明、結局、黄瀬牧場に戻ることになります。その後、仙ノ沢、惣辺、相ノ窪、黒森、谷地、幌内山の総面積4092.3平方メートルとなり、放牧されていた頭数は馬1,585頭、牛782頭、合計2,367頭。その放牧された牛馬20頭前後には、4~5人の看視人が付き、八甲田山中での寝泊りはブナやトドマツの木の根元で行ったといい、昭和40年代には、睡蓮沼・高田萢・乗鞍岳・櫛ヶ峰・黄瀬萢付近で悠然と草をはむ姿を見られ、南八甲田山一面が放牧地となっていたといいます。
これが登山者が見かけた牛と看視人になるのです。
しかし、2千頭の牛馬の食害や蹄による根茎の切断で笹の生地は3年で殆ど枯死状態になり4年、5年で完全に絶滅し、林地は灌木の殆どない一斉林となり、林床は下駄でも歩ける状態だったとか。
現在、十和田北線の蔦と谷地の道沿いには林内放牧によって成林となったブナの二次林が見られますが、大町桂月の「蔦の神秘境」によると当時は巨木だけ立つ芝生の見通しの良い平地だったようです。
このことから、放牧地南八甲田は村の重要な現金収入部門(放牧・炭焼き)だったので太田吉之助は乗鞍岳山頂に岩を守護神の御神体として祀り、ここで生活をする人々や牛馬の安全を祈願していたのでした。
今も、乗鞍岳の頂きに立つと岩の御神体があり、そこから十和田湖方面を望むと当時の「放牧」や「炭焼き」の面影を偲ぶことができます。
*筍を食べて育った牛の肉は黒毛和牛と違い、とても美味しかったそうです。
【参考文献】
東奥日報社の「青森県の山110」、八甲田の変遷出版実行委員会「八甲田変遷」、十和田村史、十和田湖町史、青森県史近代史4 、取材協力:旧十和田湖町町長 渡辺毅
(文)協議会理事:横浜愼一/パラオ諸島戦史研究会